夕方、歯科の帰りに雷雨に遭う。治療を終えた娘と雨を避ける為にスーパーに入って、マーガリンなど買った。レジの前で並んでいると、轟音が鳴り、全員が同時に身をすくめた。レジの店員さんは、でも打ち間違えなかった。
外に出ると空が光り、あとに続く音で雷の大きさを知る。自分は雷で本当の怖い思いをした経験がない。いつか真隣に落雷を受けて命拾いした義母は、遠くで音が鳴っただけで蒼白になる。農家をしている親戚の叔父さん曰く、雷は金属に限らず、どこにでも落ちるそうだ。伯父さんが見たのは、何もない田んぼ地帯の、平たい水の上にいきなり落ちた。そこだけ稲に丸い穴があいたという。「はー、雷の奴だって、もっと良いとこさ落ちたかったろうが、しかたなく水に落ちたんだっぺな。」と言っていた。
雨が少し止んだので、娘と家まで走ることにした。前の道を傘をさして悠然と歩いている人がいる。傘の先端が金属だ。轟音が鳴り、また何処かに落ちた。東京は建物と人が沢山だから、ここに雷は落ちないだろうと思える街だ。
外に出ると空が光り、あとに続く音で雷の大きさを知る。自分は雷で本当の怖い思いをした経験がない。いつか真隣に落雷を受けて命拾いした義母は、遠くで音が鳴っただけで蒼白になる。農家をしている親戚の叔父さん曰く、雷は金属に限らず、どこにでも落ちるそうだ。伯父さんが見たのは、何もない田んぼ地帯の、平たい水の上にいきなり落ちた。そこだけ稲に丸い穴があいたという。「はー、雷の奴だって、もっと良いとこさ落ちたかったろうが、しかたなく水に落ちたんだっぺな。」と言っていた。
雨が少し止んだので、娘と家まで走ることにした。前の道を傘をさして悠然と歩いている人がいる。傘の先端が金属だ。轟音が鳴り、また何処かに落ちた。東京は建物と人が沢山だから、ここに雷は落ちないだろうと思える街だ。
まだ日の暮れないうちに東京に戻り、I駅で久し振りに家族三人で食事をした。アジアの不思議な香辛料が入ったご飯を食べながら、辛いのも甘いのも美味しいなと思う。相棒は撮影で何回かアジアを旅しているけれど、自分は一度も日本から出たことがない。外国にも空気があるのかなと思う。地面がゆるくて、乗ってみてスポンジみたいだったらどうしよう。
インドネシア料理のナシゴレンを匙で崩しながら、昔、娘の幼稚園で友達だったSさんを思い出す。彼女はインドネシア人でイスラム教を信仰していたが、毎日のお祈りも断食の月も意外にいい加減だった。色んな人がいるのだなと思った。笑顔の素晴らしい人だったけれど、滅多に笑わなかった。Sさんは日本語がうまく喋れなかったので、お母さん達の輪に入れなかった。卒業の年の正月、Sさんへの年賀状に、辞書丸写しのインドネシア語で「いつかインドネシアに行きたいです」と書いて送ると、平仮名ばかりの年賀状がかえってきた。表紙は娘さんに書かせたと思わせる子どもの字だった。そして、インドネシア語で葉書に長文を書いて送ってくれた。私は辞書で調べてみたが、手持ちの薄い辞書では判読できずに挫折した。まだ持っている。Sさんの国なら行ってみたいと思う。葉書も解読して持って行きたいが、叶うだろうか。
インドネシア料理のナシゴレンを匙で崩しながら、昔、娘の幼稚園で友達だったSさんを思い出す。彼女はインドネシア人でイスラム教を信仰していたが、毎日のお祈りも断食の月も意外にいい加減だった。色んな人がいるのだなと思った。笑顔の素晴らしい人だったけれど、滅多に笑わなかった。Sさんは日本語がうまく喋れなかったので、お母さん達の輪に入れなかった。卒業の年の正月、Sさんへの年賀状に、辞書丸写しのインドネシア語で「いつかインドネシアに行きたいです」と書いて送ると、平仮名ばかりの年賀状がかえってきた。表紙は娘さんに書かせたと思わせる子どもの字だった。そして、インドネシア語で葉書に長文を書いて送ってくれた。私は辞書で調べてみたが、手持ちの薄い辞書では判読できずに挫折した。まだ持っている。Sさんの国なら行ってみたいと思う。葉書も解読して持って行きたいが、叶うだろうか。
いつもの金曜の旅。茨城に着くと、迎えに来てくれた義母が片足をひきずっている。先週、動物園に出かけた際に痛めたらしい膝が、ひどく悪化したのだ。歳をとると膝の骨にグリスがきかなくなるんだっぺ、とお母さんは笑っている。私がきりんに見とれて写真を撮っている間、そういえばお母さんは手すりに掴まっていたのを思い出す。きっとあの時からもう痛かったのだ。
深夜にパソコンに座っていると、この土地での役割で頭が一杯になる。もう一人の自分と場所交代して暮しを取り替える感覚だ。庭の草刈りを始めなくては。仏間の花を買いに行こう。些事の積み重ねの先に、どれほどの良い関係を築けるか、まず自分の我を折る。何度でも誓い直す。茨城時間は旅行のようでも、一週間の半分近くを過ごしているのである。
茨城の桜はまだ咲いているそうで、場所によっては満開か、散りぎわが見られるらしい。明日近くに桜がないか捜してみよう。
深夜にパソコンに座っていると、この土地での役割で頭が一杯になる。もう一人の自分と場所交代して暮しを取り替える感覚だ。庭の草刈りを始めなくては。仏間の花を買いに行こう。些事の積み重ねの先に、どれほどの良い関係を築けるか、まず自分の我を折る。何度でも誓い直す。茨城時間は旅行のようでも、一週間の半分近くを過ごしているのである。
茨城の桜はまだ咲いているそうで、場所によっては満開か、散りぎわが見られるらしい。明日近くに桜がないか捜してみよう。
体調を崩した。目が覚める度に針が進んでいた。針は一時間後だったり、30分後だったりした。気がついたら昼で、細切れの悪夢も消えた。起き上がって、散らかりはじめた部屋を掃除した。何度も薄目で見た目覚まし時計も定位置に乗せた。一見、全てが元通りになったようで、病の神からうまく逃れたような気がした。
夜に茨城へ着く。電気の消えた部屋の奥で雛壇がそのままになっている。屏風に二人の黒いシルエットが座っている。小物を壊すのを極端に怖れたお母さんが(あるいは単に面倒だったのだろうか?)雛壇を翌日片付けないと女子の婚期が遅れる、という諺を重々承知の上で、私が帰宅するまで待っていたらしかった。お母さん……と私は暗闇に話しかける。お母さん。その後につける言葉は何もない。娘は嫁に行くことが出来ると信じて、明日やる。こんな些事につまずいている訳にはいかない。私は頼りにされている。たとえ私自身が、自分をまるで頼りにならないと感じていても。
H町駅の友人から、就職が決まったとメールをもらう。清掃の仕事らしい。彼女は相当頑張っている。友達として誇らしいと思う。
夜に茨城へ着く。電気の消えた部屋の奥で雛壇がそのままになっている。屏風に二人の黒いシルエットが座っている。小物を壊すのを極端に怖れたお母さんが(あるいは単に面倒だったのだろうか?)雛壇を翌日片付けないと女子の婚期が遅れる、という諺を重々承知の上で、私が帰宅するまで待っていたらしかった。お母さん……と私は暗闇に話しかける。お母さん。その後につける言葉は何もない。娘は嫁に行くことが出来ると信じて、明日やる。こんな些事につまずいている訳にはいかない。私は頼りにされている。たとえ私自身が、自分をまるで頼りにならないと感じていても。
H町駅の友人から、就職が決まったとメールをもらう。清掃の仕事らしい。彼女は相当頑張っている。友達として誇らしいと思う。
今夜は茨城、風の強い深夜。暗い廊下を歩いていると、人影のような木が揺れていて、心底ぞっとする。今夜は眠いのと怖いのとで、とても心が下向きになっている。
今日はあまり元気のでない日だった。一日を無駄にしないようにやたら細かい工夫をしたけれど、駄目だった。いやいや頑張ってみても、結局全部無駄になる。嘘から始まった頑張りは、頑張った分のひずみ、というか心の報酬を求めて、他人への甘えや、八つ当たりを生む。そうなれば、最初から頑張らない方が余程良かった、という事になりかねない。今日はそういう日だった。お風呂で私は娘に暴言をぶつけ、あとで手紙をもらった。「お母さんおふろのときはうるさくってごめんなさい。いいずらいので手紙でつたえます。気をつかってごめんなさい。お母さんがいつもとちがうから。それでもどんななやみがあってても、どんなつらさがあっても、わたしはお母さんのことが大すきです。」私はたまに頑張っているが、そういうことがよく起こる。
今日はあまり元気のでない日だった。一日を無駄にしないようにやたら細かい工夫をしたけれど、駄目だった。いやいや頑張ってみても、結局全部無駄になる。嘘から始まった頑張りは、頑張った分のひずみ、というか心の報酬を求めて、他人への甘えや、八つ当たりを生む。そうなれば、最初から頑張らない方が余程良かった、という事になりかねない。今日はそういう日だった。お風呂で私は娘に暴言をぶつけ、あとで手紙をもらった。「お母さんおふろのときはうるさくってごめんなさい。いいずらいので手紙でつたえます。気をつかってごめんなさい。お母さんがいつもとちがうから。それでもどんななやみがあってても、どんなつらさがあっても、わたしはお母さんのことが大すきです。」私はたまに頑張っているが、そういうことがよく起こる。