茨城、八日目。体調が回復した。おぬま弟さんとお母さん、娘、私の四人でH市にある動物園に出かける。山の上にある風変わりな動物園なのだが、春休み後半のせいか、多くの家族連れで賑わっている。この公園は桜が名所で、どの樹もほぼ満開の花をつけていた。ゾウやカバの背景が桜の風景、というのは、とてもいいものだなと思う。
動物を見て歩くと、みんな寝ている。起きて元気に動いているのは例外で、ライオンも、トラも、シマウマも、だらしないボーズで寝ている。今、バーチャル映像の技術が盛んに開発されているが、もし自然にかえすことが不可能なら、彼らに友達を作ってはどうだろうかと思う。人の罪業を深くするかも知れないが、彼らが幻と見破れない程の高度な映像なら……そこまで考えて、顔をあげると、キリンだけがいやに悲しげな目で手前の策からこちらを見ている。長いまつ毛だ。私は人の世で人のルールで暮しているのだから、多くの人が自然に感嘆し、畏怖し、世界の有限性、人の在り方を考える機会としての、動物園の存在意義を否定することは出来ない。
明日、娘と九日ぶりに東京に戻る予定。
動物を見て歩くと、みんな寝ている。起きて元気に動いているのは例外で、ライオンも、トラも、シマウマも、だらしないボーズで寝ている。今、バーチャル映像の技術が盛んに開発されているが、もし自然にかえすことが不可能なら、彼らに友達を作ってはどうだろうかと思う。人の罪業を深くするかも知れないが、彼らが幻と見破れない程の高度な映像なら……そこまで考えて、顔をあげると、キリンだけがいやに悲しげな目で手前の策からこちらを見ている。長いまつ毛だ。私は人の世で人のルールで暮しているのだから、多くの人が自然に感嘆し、畏怖し、世界の有限性、人の在り方を考える機会としての、動物園の存在意義を否定することは出来ない。
明日、娘と九日ぶりに東京に戻る予定。
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茨城、六日目。午前中はゴミ処理センターへ行き、午後は外の枯葉掃除をする。タンポポの葉や、枯葉の下で這う蟻の大群などを、仕事の手で忙しく払いのける。
同じ指を、夜キーボードの字を打つために使う。掃除の際に竹の熊手で傷つけた中指に、赤いかさぶたがついている。字を書くことは、1.気付くこと.2.忘れないこと.3.言い表すこと.4.その文と真逆の感情に気付き直すこと、の四つの過程を気力が続く限り繰り返すことで、おまけとして現れる副産物なのだと気が付く。現在ここにいる自分の流れと、もうとっくに過ぎ去ってしまった過去が混ぜ合わさって、やっと文が出来る。あの時に見た蟻の黒さを思い起して、現在の指を無心に動かす、そういった二つの別々の作業をやっていたのだ。だからこれは現在でもないし、過去でもない。そして私は、繰り返しの途中から過去そのものが濁っていく事実に、文を書くことによって初めて気がつく。
同じ指を、夜キーボードの字を打つために使う。掃除の際に竹の熊手で傷つけた中指に、赤いかさぶたがついている。字を書くことは、1.気付くこと.2.忘れないこと.3.言い表すこと.4.その文と真逆の感情に気付き直すこと、の四つの過程を気力が続く限り繰り返すことで、おまけとして現れる副産物なのだと気が付く。現在ここにいる自分の流れと、もうとっくに過ぎ去ってしまった過去が混ぜ合わさって、やっと文が出来る。あの時に見た蟻の黒さを思い起して、現在の指を無心に動かす、そういった二つの別々の作業をやっていたのだ。だからこれは現在でもないし、過去でもない。そして私は、繰り返しの途中から過去そのものが濁っていく事実に、文を書くことによって初めて気がつく。
熱過ぎるお湯で湯たんぽを作り、赤ん坊のように抱いて日記をつける。自分よりあったかい物は、自分より偉いような気がして大事に抱いている。家族以外誰とも話をしないので、自分が家族の利益にかなっているか、その事のみを優先して暮す。役に立てれば、よしとしよう。東京に戻ってから後悔に苛まれないように、今の状態を覚えておこう。確実に時は経過する。何処に行っても矛盾なく暮せるような、そんな生き方などありはしない。やってみて上手くいくか失敗するかは単なる結果であって、まず先にこちらの我を折る努力から始めなければ、いったい何が始められるというのだろう。
夜、仕事の直しに関して相棒からメールが届く。やはり問題ありとされた箇所が相当あったようだ。東京に戻ってから打ち合わせに参加せよとの文面。
夜、仕事の直しに関して相棒からメールが届く。やはり問題ありとされた箇所が相当あったようだ。東京に戻ってから打ち合わせに参加せよとの文面。
冷たい雨が午後に止んだ。運動を再開しようと思い、濡れた道を走ってみるが、身体が鉛みたいに重たくなっていた。たった数日動かさなかっただけで、あちこち衰えている。
今日はお義母さんの仕事がお休み。時折こたつに入って一緒にテレビのニュースなどを観る。話題を交わして、おかあさんは茨城の人だ、と当たり前のことを考える。生活の圏内がはっきりしている。農家の話題が出れば農家に同情し、この辺りの出身の力士がいれば、その力士を応援する。実家の北海道の暮しでもそうだが、生活圏に近い存在は総じて好ましいものとされて、その是非は土地の流儀に密着している。私も自分なりに工夫はしてみるのだが、地に足がついた生活というのが未だ不得手でいる。私とは環境だろうか。意思自体がそもそも環境の賜物だろうか。
今日はお義母さんの仕事がお休み。時折こたつに入って一緒にテレビのニュースなどを観る。話題を交わして、おかあさんは茨城の人だ、と当たり前のことを考える。生活の圏内がはっきりしている。農家の話題が出れば農家に同情し、この辺りの出身の力士がいれば、その力士を応援する。実家の北海道の暮しでもそうだが、生活圏に近い存在は総じて好ましいものとされて、その是非は土地の流儀に密着している。私も自分なりに工夫はしてみるのだが、地に足がついた生活というのが未だ不得手でいる。私とは環境だろうか。意思自体がそもそも環境の賜物だろうか。