今日は水曜でバレエの練習日。午前中は踊って過ごした。この頃は日記に夢中になって就寝前のストレッチを止めてしまったので、石膏で出来た身体みたいに堅い。こうなるとバレエでは立っている事すら難しくなる。例えば人が立つ時は膝も正面を向くのが普通だけど、バレエでは膝が真横にくる(アンディオール)。股関節から回旋している訳で、やっぱり普通の人間の出来る技ではない。石膏の踊りを先生に披露して終わってしまった。
昼は家で休憩。地域番組「よみがえれ!練馬大根」を見てぼんやり過ごす。
夕方からは、知人のタールマンのお宅に遊びに行く。生まれたばかりの赤ちゃんと初対面する為だ。タールマンが父になった様子は、なにか笑ってはいけない真面目な感じだった。一人目の赤ちゃん。サイはふられた。何もかもが新しく動き始めている。抱かせてもらうと小さい赤ちゃんはおならをした。いいなあ可愛いなあと思う。夫婦は赤ちゃんを交代で抱いていた。
帰り道に隣を見ると、七才の娘が巨人に見えた。おぬまさんと家族三人で外食して帰ってくる。
午前中ずっと庭に出て、2時13分の特急電車で東京に向かう。同じ車両。同じ立ち位置。何事もなければ、来週もこの場所に立っている筈だ。心に触れたものがあまりない時、時間は急に飴のようにぐにゃりと伸びていく。生きるエネルギーが急激に減少するあの感じ。
こういう日は生きていれば、生きている事が習慣になる。膨大な世間の霞みの片隅で、自分が空っぽと思える日が。
私は考えを変えたくなる。自分は、庭のなすやきゅうりと同じ生き物だと思ってみる。疑わず、おそれず、最後の収穫まで素直に育つのだ。水や、光や、同じ因果で回る偶然で、……
夕方東京に戻ると、駅前ではぽつぽつと雨が降っていた。とにかく一生懸命やってみなければ、それがどこに向かうかなんて、やりながら判る訳もない。この暮らしだって安泰という訳じゃない。さあいこう。なんだか急に時計が早回しになるようで、時間感覚がねじれる。娘と急いで横断歩道を渡る。
小沼お母さん邱周辺には、とかげ達が沢山暮らしている。ふっと下を見ると、よく石の上を走っている。嫌いな人は想像するだけでむしずが走るだろうが、とかげは毒もないし、わるさもしない、ただそこいらを走るだけの可愛い小心者だ。見つけたので反射的に飛びかかって(なぜなら妖怪人間ですから)素早く両手で捕まえると、とかげは何度も私の手のひらの肉を噛んだ。歯がないからさして痛くもない。7歳の娘に見せた。娘は大喜びしている。そのまま握っていたら異変が起きた。とかげが……芝居をうったのだ。そして、胴の辺りから千切れた。私と娘はぎゃっと悲鳴をあげた。下に落ちた尻尾がうねうねと動いている。本体(?)は、悲しげに尻を隠しながら草陰に消えた。とかげの尻尾切りだ。これがそうなんだ。言い訳ではないけれど、こちらとしては友好ムードで接してすぐに放すつもりだったのに、なんというあわてん坊だろう。物理的な力も加えず、奴はロケットでも切り離すように、自分の身体を切り離してしまった。残された私達親子はしっぽを見下ろした。尻尾はまだうねうねと動いていた。私はとかげが少し怖くなった。なにか人間には判らぬものだと思った。こんな事は無我夢中でしでかすのだろうか。それとも、切り離せると知っていて、普段から頼りにしているのだろうか。別の個体がこちらを物陰からうかがっているのが見えた。私は娘の肩を抱いて、マイホームへ帰っていった。
今日は新鮮なオクラをスーパーで購入。よろこんでお鍋で茹でていたら、次々と破裂しだして、大惨事に。あごと首の下を火傷する。オクラでこんな目に遭ったのは初めてだ。
料理は好きな方なのだけど、うまく出来た、と思える時は数える程だ。一昔前は料理本を80冊持っていたし、立ち読みやら図書館で借りたのを合わせると300冊位は読んでいる。のだけど、料理を目で知っているだけで、美味しさの方程式はまるで掴めない。
料理上手な方は、目でレシピを読んだだけで味の予想がつくという。そういう方はたいてい料理上手なお母さんとか、美食好きの一家だとか、美味しいものに囲まれて育った人ではないだろうか。
自分の母の場合、餃子は水を入れずに焼くので石みたいに堅かったし、スパゲティにはお砂糖が山盛り4杯入っていて、舌が抜ける程甘かった。ハンバーグは毎回生焼け、お魚は真っ黒焦げだった。子供の私は甘いスパゲティを食べるのがつらくて、イタリアときくとこのスパゲティを思い出して怒りを感じていた。
……親って、その他いろいろな方面で、ありがたいものだ。(フォローになってないよ)
そんな環境でも、なんとか取り返せるだろうか。私の場合の美味しさの方程式は、《石、水っぽさ》《焦げ、生》を元にグラフ表を作ってみる事が出来そうだ。
今日はオクラの呪いなのか、がっくりしてきたので、この辺で。
電車を待っていると実に様々な人が歩いている。年配のサラリーマンとラフな恰好した男性が大半、あとは女性、たまに幼児。学生。
私は駅のホームをうまく歩けない。ただ自然に歩こうと努力してしまう。私はそのように努力している人を見かけた時にある種のばつの悪さを感じる。どうしてそうなってしまうのかよく判るからだ。
座席の隣で身を固くしている小柄な女性に、何か言いようのない親近感を感じる。
こんなこと、お互いつらいですね。当たり前ですよね、リラックスできないの。だってお互い、知らない人同士ですもん。
相棒と池袋で別れたあと、サンシャインシティで買い食いと衝動買いを繰り返し、紙袋を抱えて家に戻る。空っぽになった財布をおでこに乗せて、しばらく放心。
ひよどりを頭に飼ったまま、娘と宿題をいっしょにやる。
おぬまさんと7歳の娘が、部屋を真暗にしてシネマ鑑賞をしている。1985年に制作された『銀河鉄道の夜』で、細野晴臣氏の作曲した主題曲の旋律が際立って美しい。
今朝はどうにも心臓の違和感があって、昼過ぎまでダウンしていた。歩くとまだ少し苦しい。思えば今まで随分心臓を苛めてきたのだから、こうなったのも文句は言えない。こんな日は死にたくない、と一言書けば済んでしまう日なのかも知れない。それ以外に骨身に堪えた思いはないからだ。
私は死はさほど怖くないが、結局のところ何より苦痛が恐いのだった。苦痛、苦痛、それだけが生きている今の世界で唯一恐ろしい。快楽の為に何でもする私と同じく、苦痛を回避する為に私は何でもする人間である。この心は偶然の産物である。確かなものは何一つ持っていない。
その都度真剣に真面目に生きていたら、必ず暗い障害に突き当たる。これは仕方のない事だ。でも日記をつけて良くなってきた事が結構ある。生活は少しずつ前進している。私にとっての前進とは、以前出来なかった事が出来るようになる、ということ。
ジョバンニとカムパネルラの会話を聞きながら、賢治のいう本当の幸いについて考えさせられる。
明日も日がのぼる。ゆっくり行こう。