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人間になればよかった...
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仕事に要求されている事が思いつけないので、溜まっていた読書や勉強がどんどん進む。いつもこんな風に差し迫っていれば、倍のスピードで本が読めるらしい、肝心の仕事の方は真っさら、白紙だ。
録画していた映画『戦艦バウンティ』(1962年アメリカ)を観る。子供の頃、作られた国も俳優の名も知らず、ただ悲しさ、残酷さ、謎の符丁だけを受け取った、そういう断片的な映像の記憶が誰にもあるのではと思うけれど、私にはこの映画がそうだった。鞭打ちのシーンがあり、血だらけの人の背中、船の甲板の海臭さが、映りの悪いテレビ画像を通して目の網膜に焼き付いてしまった。よほど怖かったのか、意識の底の底にこびりついてしまい、海を舞台にした映画が始まると、決まって胃痛がするようになってしまった。
その場面が唐突にテレビ画面に映った時の驚きは、たとえようもない。今観ると、当時作品賞を含む7部門でオスカー候補だったらしく、申し分ない素晴らしい娯楽作品である。主演はマーロン・ブランド、名優もいいところで、予算も100億の大作だった。ラストは思わず涙した。実は立派な映画と出会っていたのだ。しかし旧い記憶では、鞭で打たれた男は息絶えて、死体は甲板から海へ無造作に投げ捨てられていた。自分が何度となく反芻してきた「ドボーン!」と飛沫を上げたシーンが、ない。そこだけが判らない。ネット上のあらすじを読んでも、映像を見ても、その男は物語の後半にも登場している。あれっ?
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家族3人で外出。G駅の映画館で『落下の王国』(監督・ターセム)を観た。数ヶ月前から机上の壁にチラシを貼り付けて、映画を観られる日を楽しみにしていたので、今日は嬉しかった。落下、というキーワードで世界を語る視点も、つくり話で現実と夢が平行する物語のあらすじも、とても気に入っていた。実際本編を観ると、頭の中で準備体操をやりすぎた感じで、物語をよく見なければと思いつつも、私には美しさだけで充分過ぎた。ターセム監督は私財を投入し、CGを極力使わず、世界24ヶ国のロケーションで四年の手間をかけて撮影したそうだ。地球上に美しい光景がこんなにあるのかと、受け止めきれない程の映像美だった。
家に帰って、チラシはこのままずっと貼っておくことにした。
下の弟の命日だなあ、と朝起きて思う。東京は今日も灼熱の夏、故郷ではきっと賑やかに、家らしい流儀で霊を弔ったのだろう。わたしにとって、弟は、生まれてから死ぬまでを通して見た最初の人だった。14年が経過した。弟との再会を信じている。
夕方、相棒の提案で、娘と三人で『崖の上のポニョ』(監督・宮崎駿)を観に行った。監督は何故「崖」の難しい字を使ったのだろう。五歳の子でも判るように、の言葉通り、内容には隅々まで配慮が感じられた。だから、無造作につけたものではないだろう。映画の感想は動く画を見る快感に尽きた。後半の途中に出てくる水底の美しい場所は、宮崎監督の母が待っている天国ではないかと思えてならなかった。もういない女性のぬくもりが、透かし彫りのように映画の背後から立ち現れていた。
家で掃除をしていたら、相棒が後ろから何か言いたそうな顔で見ている。二人でI駅にある映画館へ出かけた。予備知識のないまま『ミスト』フランク・タラボン監督のホラー映画を観た。映画館に無言で座っていると、不気味な効果音が静かに鳴っていて、この劇場が火事になったらどうしようかと不安になってくる。(以下、映画の内容に触れますので、知りたくない方はご覧にならないで下さい)
映画は、田舎町を襲った謎の嵐が皮切り。町の人達が大量発生した霧に閉じこめられて、正体不明の生物に次々と殺されてパニックに陥る話。スティーブン・キングが二十年くらい前に書いた中編小説がベースらしく、外部からもたらされた恐怖より人間心理の方に怪物が潜む、という解釈はキングの発明品だったのではと思う。恐怖の舞台を人間の内奥に移し替えた事で、ホラーは様々な発展を得ることが出来た反面、時を経るにつれて人間不信の物語へと顔を変えてしまい、次第に行き詰まってしまったのではないだろうか。地球温暖化などの問題が迫った二十年後の現在から見ると、異世界の扉が開いたという恐怖はすでにノスタルジックだが、少し前までは、こういう異世界のディテールをいかに巧みに創るかに労力を注いでいた筈の物語が、今では人間がいかにくだらないかということを、人間自身を使って表現する羽目になってしまった気がする。
評判の良い映画のようで、自分には合わなかったが、人によってはスリリングで飽きない2時間を楽しめる作品ではと思う。
書き物の〆切が近くなってきたので、相棒に娘を預かって貰って、今日は家に閉じこもっていた。体温が低下し、食欲が異常に増して、立ち上がったり座ったり、資料を読み返したりして、とにかく考え続ける。判らない箇所は途方もなく広がって、いつも収集がつかなくなるのだけど、一旦は原稿をぐちゃぐぢゃにするのが自分のやり方だ。全体をつらぬく核が見つかれば、そこが脱出口。見つからなければ、物語の迷宮から出られない。成功すれば、〆切直前に急速に冷え固まるようにして話が出来るし、失敗すれば、依頼者に渡すことの出来ない、無意味な言葉の断片で出来た巨大な球になる。自分が納得いくまで話を作るという贅沢は、もうしてはいけないと誓う。依頼者がある以上、ごめんなさい、球が出来ました、では済まされない。
夜遅くに相棒と娘が帰ってきた。ただいま!と抱きついてきた娘の髪が外気で非常に冷たかった。おかえりと返事しようとしたら、自分は失語症気味になっていて、ああ、うう、みたいな感じで声が出た。原人になっているのだった。
映画言葉は、人間の知恵の凝縮だ。生涯を通じてひとつで足りるし、苦しい時、いつでも達人の助けを得ることが出来る。人の生き方を教える優秀な言語だが、それをその言葉以外のものへ翻訳することが出来ない。 映画言葉を追求し続けること。それが、一体なんだというのだろう。もともと日常言語にとっては全く意味のない徒労にすぎない。だから、感じない人には全く力をもたない。それに映画言葉は、一度覚えると、かなり無気味な言語だ。芯から明るい人は一人もいなくなる気がする。映画に無縁な暮しを送る人達にとっては、上級者達の血まみれの映画言葉は、不安さを通り越して一人の宇宙人、あるいは未開の原人となるだろう。師匠のB先生や、I先生の作品のように。 それにしても、敗者をより多くふるい落とす者は、よりすさまじく輝いている。美しさや感動は、なんの為に存在しているのだろう。なぜこんな瞬間的な存在が、強い衝動を感じさせるのだろう。どうして、人に永遠の観念を連想させるのだろう。 あまりに残酷な光のからくり。
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