おぬまさんと7歳の娘が、部屋を真暗にしてシネマ鑑賞をしている。1985年に制作された『銀河鉄道の夜』で、細野晴臣氏の作曲した主題曲の旋律が際立って美しい。
今朝はどうにも心臓の違和感があって、昼過ぎまでダウンしていた。歩くとまだ少し苦しい。思えば今まで随分心臓を苛めてきたのだから、こうなったのも文句は言えない。こんな日は死にたくない、と一言書けば済んでしまう日なのかも知れない。それ以外に骨身に堪えた思いはないからだ。
私は死はさほど怖くないが、結局のところ何より苦痛が恐いのだった。苦痛、苦痛、それだけが生きている今の世界で唯一恐ろしい。快楽の為に何でもする私と同じく、苦痛を回避する為に私は何でもする人間である。この心は偶然の産物である。確かなものは何一つ持っていない。
その都度真剣に真面目に生きていたら、必ず暗い障害に突き当たる。これは仕方のない事だ。でも日記をつけて良くなってきた事が結構ある。生活は少しずつ前進している。私にとっての前進とは、以前出来なかった事が出来るようになる、ということ。
ジョバンニとカムパネルラの会話を聞きながら、賢治のいう本当の幸いについて考えさせられる。
明日も日がのぼる。ゆっくり行こう。
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今日は、夢の中でも樹を切っていた。まるで眠った気のしない朝を迎えてしまった。働きに働いて、起きたら朝である。こういう納得いかない朝のスタートはたまにある。
金、土、日と茨城に来て、日曜の夕方に東京に戻る、という生活をかれこれ五年間ほど続けている。茨城の自然を眺めていると、私は北海のあざらしと名乗るように北海道出身なので、いつも旅行気分が抜けない。本州の豊かな四季折々の風景が広がっていて、ああここは正真正銘の日本だ、と感じる。北海道の自然はなんというか、あそこはたぶん日本じゃないのだろう。梅雨もなく、稲もなく、とんぼも変なのしか飛んでない我が故郷は、日本的情緒というものが全く存在しなかった。私は日本人のふるさとだとか、原風景だとかいう、いつも本の中でしか見聞きしたことのない感覚をこの土地で初めて見た。
美しい緑の田んぼは、私の血に含まれない。風に散りゆく春の桜を見ても、紅葉の美しい秋の山々を見ても、自分が日本人だと感じられるような特殊な感慨は全く湧かない。
お昼、草の影から飛び出した、生まれたてのアゲハチョウを見た。
夕方東京に戻る。夜は知人のズッキーくんと昼行灯さん来る。飲み屋に繰り出しておでん等つつく。
金、土、日と茨城に来て、日曜の夕方に東京に戻る、という生活をかれこれ五年間ほど続けている。茨城の自然を眺めていると、私は北海のあざらしと名乗るように北海道出身なので、いつも旅行気分が抜けない。本州の豊かな四季折々の風景が広がっていて、ああここは正真正銘の日本だ、と感じる。北海道の自然はなんというか、あそこはたぶん日本じゃないのだろう。梅雨もなく、稲もなく、とんぼも変なのしか飛んでない我が故郷は、日本的情緒というものが全く存在しなかった。私は日本人のふるさとだとか、原風景だとかいう、いつも本の中でしか見聞きしたことのない感覚をこの土地で初めて見た。
美しい緑の田んぼは、私の血に含まれない。風に散りゆく春の桜を見ても、紅葉の美しい秋の山々を見ても、自分が日本人だと感じられるような特殊な感慨は全く湧かない。
お昼、草の影から飛び出した、生まれたてのアゲハチョウを見た。
夕方東京に戻る。夜は知人のズッキーくんと昼行灯さん来る。飲み屋に繰り出しておでん等つつく。
茨城はまるで夏本番の暑さだ。ただ、風がほどよく吹いて心地よい一日。
今日は、庭で育ちすぎた樹を次々と切り倒した。不良の樹、根性曲がってる樹、おかしな所に枝を生やした樹、等々、小沼おかあさんと相談して、全部で5本の樹を間引くことに決める。物言わぬ樹木が相手はいえ、それぞれ元気いっぱいに葉を茂らせていて、まさか今日切られるとは予想もしていない雰囲気だ。涼しい木陰の下から樹を見上げていると、私の持っている鋸が妙に後ろめたい。幹に手をつくと、樹皮の下がドクドク震えている。鋸でぎこぎこと挽いていく。枯れ木と違って手応えがある。力も弱く手際もうまくない素人仕事の為に時間がかかる。切られるのをおとなしく待っている樹は、本当に私の100倍は真面目だ。三分の二、切ってもまだ倒れない。まだ倒れない。もう一息と思ったら、あああーっと奇妙な声をあげて、樹は派手に倒れた。痺れる程腕を上下させて二時間ほど奮闘し、5本の樹はすっかり片づいた。縁側でよく冷えた麦茶を飲んでいると、庭の隅のあちこちに茂った雑草が目につく。私はプロパンガスを暴発させたような火炎放射器を使って草達を焼き殺すか、それともナイロン紐を超高速で回転させて草達を根元からぶった切るか、しばらく思案した。草達は風に吹かれて頭をゆらしている。明日、東京に戻る前に片づけていこう。裏の焼却場では樹が薪になって、めらめら奇麗な炎をあげて燃えていた。
今日は、庭で育ちすぎた樹を次々と切り倒した。不良の樹、根性曲がってる樹、おかしな所に枝を生やした樹、等々、小沼おかあさんと相談して、全部で5本の樹を間引くことに決める。物言わぬ樹木が相手はいえ、それぞれ元気いっぱいに葉を茂らせていて、まさか今日切られるとは予想もしていない雰囲気だ。涼しい木陰の下から樹を見上げていると、私の持っている鋸が妙に後ろめたい。幹に手をつくと、樹皮の下がドクドク震えている。鋸でぎこぎこと挽いていく。枯れ木と違って手応えがある。力も弱く手際もうまくない素人仕事の為に時間がかかる。切られるのをおとなしく待っている樹は、本当に私の100倍は真面目だ。三分の二、切ってもまだ倒れない。まだ倒れない。もう一息と思ったら、あああーっと奇妙な声をあげて、樹は派手に倒れた。痺れる程腕を上下させて二時間ほど奮闘し、5本の樹はすっかり片づいた。縁側でよく冷えた麦茶を飲んでいると、庭の隅のあちこちに茂った雑草が目につく。私はプロパンガスを暴発させたような火炎放射器を使って草達を焼き殺すか、それともナイロン紐を超高速で回転させて草達を根元からぶった切るか、しばらく思案した。草達は風に吹かれて頭をゆらしている。明日、東京に戻る前に片づけていこう。裏の焼却場では樹が薪になって、めらめら奇麗な炎をあげて燃えていた。
一日一日、のろのろと進み、外の青は目に眩しい。何処に続いているのか、分からない時間だと思う。
生とは、永遠の死を外から見る為の唯一の機会なんだろう。長さでもなく時間でもない死を観察するのは、この場所をおいてない。全てはそこに秘密があるのだ。死の仕組みに。生には何の仕組もない。死は、外から観察されることを確かに欲している。
今日はなんだか取り留めのない事ばかり考えていた。自分に考える力がなにもないことは惨めな気持になるけれど、一方で、自分の身体を助けてもいるらしい。私は何も判らない事をひたすら考え続けて、あきらめた。私は漫画である。こんな日は頭の回路がショートしているに違いない。
字を書くこと「以上」に、生きることは大変なことだ。とにかく、生きているという事実はすでに只事ではない。今日はもう考える力がないのだから、そのまま置き去りにして、私は行こう。こういう取り留めのない一日も軽々と越えていけるようになりたい。
夕方、娘と一緒にどこでもドアで茨城へ。
二週間に一度位、親しい友人から電話がかかってくる。彼女の近況報告と、悩み相談を受け、場合によってはその日のうちに会いに行く。ここ数年、友人は幻聴と幻視に苦しんでいたが、今は回復中で元気で暮らしている。今日は雑談だけで電話を切った。
数ヶ月前、この友人の付き添いとして初めて精神科に行き、彼女の担当医と会ってきた。つくづく思うに、人間の心くらいどうにでも変化するものはないと思う。それは友人もそうだし、サポートに回る自分自身もだ。専門知識を持たない善意の他人がボランティア精神で格闘し、力尽きていく事は実にありふれた光景らしい。専門職ではない自分も出来ることが限られている。それは友情の目方、と呼んでもいいだろう。
私は友情の限界を知って目方以上の行動はとらないと決めている。ここ数年彼女と共に過ごした事で出来てきた自然な流儀だ。他人の心の中心部分は、その人本人しか触われない冷たさで出来ている。「他」という感覚は私にとっては異質で凍り付くような場所だ。数々の修羅場の中で、私は自分が自分の背負える以上のものを背負っていなかったか思い知らざるを得なかった。また彼女は、そんな未熟な私でも必要としてくれた。
それにしても女医は凄かった。白衣も着ずに座っていて、鉄面皮のように友人の話を無表情で受け止めていた。勿論、職業上必要な冷静さではあるのだろうが、朝から晩まで予約で一杯の診察室で、果てしなく続く患者の訴えを次から次へと処理していく過酷な日常がしのばれた。ここまで訓練するのにどんなにか大変だったろうか。
帰り道、はっきりと考えた。私は答えも知らないのに友情を維持している。
友人は自分の近況を細かく報告してくれる。もう腐れ縁だと観念しているので、彼女の調子が下にさがっていると私も凹むし、もうお互いの幸福に辿り着くまで、長年付き合っていく相手だろう。運命共同体だと思っている。
私はあの女医を時々思い出す。そして私は友情の目方を時々握ってみて、やはり重さがあり、限りがあることを確認する。それは今日のようなささいなやりとりで日々重さを増している。
数ヶ月前、この友人の付き添いとして初めて精神科に行き、彼女の担当医と会ってきた。つくづく思うに、人間の心くらいどうにでも変化するものはないと思う。それは友人もそうだし、サポートに回る自分自身もだ。専門知識を持たない善意の他人がボランティア精神で格闘し、力尽きていく事は実にありふれた光景らしい。専門職ではない自分も出来ることが限られている。それは友情の目方、と呼んでもいいだろう。
私は友情の限界を知って目方以上の行動はとらないと決めている。ここ数年彼女と共に過ごした事で出来てきた自然な流儀だ。他人の心の中心部分は、その人本人しか触われない冷たさで出来ている。「他」という感覚は私にとっては異質で凍り付くような場所だ。数々の修羅場の中で、私は自分が自分の背負える以上のものを背負っていなかったか思い知らざるを得なかった。また彼女は、そんな未熟な私でも必要としてくれた。
それにしても女医は凄かった。白衣も着ずに座っていて、鉄面皮のように友人の話を無表情で受け止めていた。勿論、職業上必要な冷静さではあるのだろうが、朝から晩まで予約で一杯の診察室で、果てしなく続く患者の訴えを次から次へと処理していく過酷な日常がしのばれた。ここまで訓練するのにどんなにか大変だったろうか。
帰り道、はっきりと考えた。私は答えも知らないのに友情を維持している。
友人は自分の近況を細かく報告してくれる。もう腐れ縁だと観念しているので、彼女の調子が下にさがっていると私も凹むし、もうお互いの幸福に辿り着くまで、長年付き合っていく相手だろう。運命共同体だと思っている。
私はあの女医を時々思い出す。そして私は友情の目方を時々握ってみて、やはり重さがあり、限りがあることを確認する。それは今日のようなささいなやりとりで日々重さを増している。
体調不良で泣ける。ごはんの味しない。
水曜は週に1回のバレエがあって、どうしても休みたくない。踊れば治るだろうと思って教室に行った。青白い顔でプリエする。立ってるだけで幸福感でいっぱいになる。
幼少の頃から盆踊り位しか踊ったことのない自分が、なぜこんな訓練にどっぷりつかり込んでいるのか、成り行きというやつは本当に判らない。習い始めた後もしばらくは誰にも口外しなかった。耳にしただけでくすぐったい響きがバレエにはあるからだ。「バ……」と言いかけて、私は全身をふわふわの羽毛で撫でられているような気がする。
でも自分の思っていた優しい世界ではなく、踊りそのものが異様な感覚であること、それがあんまりにも異様で、書き言葉の世界と非常に似ている気がするのだった。
わたしは結局、妄想のみを愛して暮らしている人間らしい。体調は最悪でも、今日必要な分の妄想があれば、結構元気でいられるのだった。
……。12時が近い。いやーん、タイムリミット。今日は途中日記でした。
水曜は週に1回のバレエがあって、どうしても休みたくない。踊れば治るだろうと思って教室に行った。青白い顔でプリエする。立ってるだけで幸福感でいっぱいになる。
幼少の頃から盆踊り位しか踊ったことのない自分が、なぜこんな訓練にどっぷりつかり込んでいるのか、成り行きというやつは本当に判らない。習い始めた後もしばらくは誰にも口外しなかった。耳にしただけでくすぐったい響きがバレエにはあるからだ。「バ……」と言いかけて、私は全身をふわふわの羽毛で撫でられているような気がする。
でも自分の思っていた優しい世界ではなく、踊りそのものが異様な感覚であること、それがあんまりにも異様で、書き言葉の世界と非常に似ている気がするのだった。
わたしは結局、妄想のみを愛して暮らしている人間らしい。体調は最悪でも、今日必要な分の妄想があれば、結構元気でいられるのだった。
……。12時が近い。いやーん、タイムリミット。今日は途中日記でした。