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人間になればよかった...
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娘の黄色い校帽が、夏の青空によく似合っている。校門の近くまで送っていったところで、手をつないでるのが恥ずかしいから、と言って、さっと離れていった。
小学校は夏休みの間中プールを開放している。娘はこれから存分に泳いで、肌を焦げ茶色に焼いて帰ってくるだろう。
空に風がそよいで、緑の木陰を通って家路につく。今日は陽の光が特に強い。人生の中では多分お勘定に入らない静かな日だ。自分が影法師になったようで、過去から振り返って見ている、未来の紙芝居みたいだ。
明るく幸せな心はいつも長持ちしない。今日の日を大切に暮らそうと決める。
夕方、家族三人で散歩がてら本屋に行く。たいへん涼しい風が吹いている。何を書いても自分に苛立つ周期がある。そんな日は自分が喋っている声を聞くのも厭になる。今日はなにも喋らずに景色ばかり見ていた。
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なに書こう。シャボン玉が浮かんだ。今日の日記は随分と古い話。
小学校2年生の時、同じクラスの男の子となにかにつけ競い合っていた。学校の図書館で借りた本をひらいて、おもしろ怖い不思議な本を二人で読んだ。なにか憎いような、尊敬するような、形容しがたい印象を残した相手だった。
当時の小学校の図書室はうさんくさい情報源の本でもこだわりなく置いてあったようだ。ある日、私達は一冊の本に夢中になった。それは世界の仰天記録大辞典とかいう、凄い情報が満載の本だった。ある1ページを指さして、男の子は言った。
「お前。あしたまでに、これぜんぶおぼえられる?」
「○○くん、できる?」
「オレ、できるぜ」
その子に感心されたいが為に、私は自分も出来ると言い張った。
33歳になって未だに覚えているその時の記憶が、「世界一長い名字」の記事だ。
アドルフ・ブレイン・チャールズ・ダビット・アール・フレデリック・ジェラルド・ヒューバード・ジョン・ケンネス・ロンド・マーチン・ネロ・オリバー・ポール・クインシー・ランドルフ・シャーマン・トーマス・アンカス・ビクター・ウイリアム・クセルクシス・ヤンシ・ーゼウス。
私は帰り道で唱え唱え、ご飯の前に唱え、お風呂でも唱え、とうとう寝る前までに覚えてしまった。そして翌日。二人は同時に唱え終わった。勝負は引き分けだった。
もう忘れたかな、と唱えているとまだ覚えている。何の語呂合わせにもなっていないが、不思議と記憶は消えない。意味がないからこそ残ったのかも知れない。高校受験の時、緊張のピークで脂汗をかいていたら、ひょいと出てきた。アドルフ・ブレイン・チャールズ……
33歳になっても未だに覚えているのだから、おそらく一生ものの記憶だろう。
私はこの呪文を今まで何度唱えたか数え切れない。ところがある時ふと気がついて、心の底から愕然とした。この名前は頭文字がアルファベット順になっているではないか。アドルフ(A)、ブレイン(B)、チャールズ(C)……
なんという哀しさだろう。おそらく記事の担当者が適当に考え出したに違いない。私はそれを後生大事に抱えて暮らしてきたのである。
私はこれからも、この無意味な語呂と生涯をともにするのだろう。
ちなみに、実際の世界で一番長い名字の方は、ユーゴスラビアの方らしく、「Papandovalorokomdururonikolakopulovski(パパンドバロロコムドウルロニコラコプロプスキイ)」さんだそうだ。こちらの方はまるで覚える自信がない。
シャボン玉が割れた。あの日の男の子、さようなら。
本が好きな性分で、最近は日本の古典をなるべく読むようにしている。練習しないと永久に読めるようにならないから、分不相応な本も手にとってみる。今日読み返したのは『風姿花伝』(世阿弥)。能の極意など、頭にあんこの詰まった私が読んだところで何の参考になる訳でもないだろうが、バレエの見せ方にも思い当たる節があってたいへん面白い。読み終わって余韻に浸っていたら、ふと先日TVで見たオオサンショウウオの映像を思う。
オオサンショウウオはおぬまさんが大好きな生物だ。水族館に行くと必ず水槽をがぶりつきで見ている。そんな訳で、その映像が映った時、私達夫婦は思わず無言になってしまったのだった。
日本国の天然記念物でもあるオオサンショウウオは、絶滅寸前だったところ近年で相当数が増えたらしい。いい話だと思ったのもつかの間、何処からか入ってきた中国産が日本原産のと結婚して、「雑種」としか言いようのない、分類分けできない種が主流になっているとのこと。
テレビ映像で見たそいつは、変に茶色っぽい、大きい、顔つきも何か不敵なものだった。近い将来日本の沼地に生息するオオサンショウウオは全て雑種になってしまうだろうという研究者のコメントでニュースは終わっていた。
我が身を省みるに、私達日本人もきっとご先祖様から見ると、なに人だか判らない程、雑種になっているだろう。
この先もますます国際化して、雑種の究極として進むしかないのだろうが、何もかも混ざり合って、たくましく生きていくのが生物の宿命だとするなら、昔の方が常に良い時代で、昔の日本が美しくあり続ける理由も、ごく自然なことだという気がしたのだった。
今夜は7時からサッカー「日本対オーストラリア」。おぬまさんは興奮するとそこら中のものをぶっ叩くので、一工夫して、椅子の隣に段ボールを置いてみた。私の予想した通り、おぬまさんは段ボールを叩いている。ほっとした気持になって、娘と外に出かけた。
近所のお寺ではちょうど盆踊りがあって、浴衣姿の人が沢山道を歩いていた。高く組まれたやぐらの上で、浴衣を着たご婦人達が独特の手つきで踊っている。オバQ音頭だ。毒々しいブルーハワイのかき氷がどうにも妖しい。隅っこに行って娘に食べさせていると、外国人のお母さんと赤ちゃんがやぐらを見上げている。金髪の男の子が娘のかき氷を見て、食べたそうにせがみ始めた。
外国人のお母さんはさっきから甚平を着た男性にからまれている。貴女はセクシーですね、とかなんとか。見た目は立派な白髪の紳士だった。酒でもひっかけているのだろうか。
「氷、何処で売ってますか?」外国人のお母さんが日本語で私に聞いた。
「あっちの一番奥ですよ。もし良かったら買ってきてあげましょうか。混んでいるから、時間がかかるかも知れませんけど」
「ありがとうございます。ベビーカーがあるので、押していけません」
かき氷を待つ行列は延々と果てしない。屋台のお兄ちゃんが気が遠くなるような数を一人でさばいている。寺の苔は色々な人に踏まれている。これが日本らしさなのかな。箱庭の国。浴衣と甚平。金髪の男の子の為に買った、ただ緑色でしかないメロン味の氷。……
部屋に帰ってきても、盆踊りの余韻。スケベ甚平に注意する事は勇気がなくて出来なかった。なんとなく後悔していると、娘がばーんと背中を叩いて「そんなことじゃ、二学期はどうすんの!大人なんだから、がんばりなよ!」と励ましてくれた。
隣室のテレビの様子では、PK合戦まで持ち込んだ気配だった。日本。日本。大観衆のどよめき。おぬまさんの大声だ。やったと思う。何故か急にしんとしている。おそるおそる見に行ったら、おぬまさんは「し、痺れた……しびれた……」とうめきながら、床に倒れていた。
まじめなヤツが一生懸命フルーツを育てていると、いいかげんなヤツが横から来てむしゃむしゃ食っていく。世の中はかくも哀しい。実にうまく回っている。世界にとって大切なことは、まじめなヤツがフルーツを育て続け、いい加減なヤツがフルーツのうまさを語り、お天気はただ黙々と輝き続けることにある。
今日は娘の終業式と、地域子ども会の集まりがあった。子ども会とは災害があった時の為に作られているチーム活動だ。年に一回だけ遊びの会を開催する。顔を合わせたのは今日で三回目だった。
集まった子供達は水鉄砲でお互いを撃ち合い、笑いあい、走り回っていた。お母さん達に混じって後ろから見ていたあざらしは、ペットボトルの水を飲みながら、おそらくは薄笑いなど浮かべて、何をすることもなく立っていた。
世界にとって肝心な点は、まじめなヤツが食い気など持たず、横から食われてもけっして怒らず、否、事実そのものに気付かないことにある。
子供の流れ弾が、ひたいに当たった。
冷たく、清涼な一撃。
私の暗いフルーツの空想はその瞬間に飛散し、代わりに子供達の甲高い笑い声がこだました。3秒の幸福。そして溢れ出した後、また何事もなかったように、埃っぽい日常音がかえってきた。
子供達の撃ち合いはどこまでも続いた。
昨夜の日記のあと、お母さん友達からメール着信があり、ここが友情の要だと徹夜覚悟で返事を書いた。布団に倒れてばたんと意識がなくなり、三時間眠ったら朝だった。灰色の曇り空が窓から見える。布団からむくりと起きて、台所で朝ご飯の支度を始める。
娘を学校に送り出して片付けをしていると、貧血。冷蔵庫が、右に、左にゆれる。布団に倒れていると、午前中にお母さん友達から電話。一時間半の離婚相談。うわあ神さま、そこまでやんなきゃダメ?……えっ、自分で決めろって?
大半の女性は喋る事で救われるとつくづく思う。書いたり話し合ったりしてみても、きっと無駄なんだ。喋る事と眠る事であらゆる問題の大半を解決してしまう。
受話器を握りしめながら、相手が幾らでも話したい気分なのを察知して、もういいのかな、と思う。自分で一線を引くんだ。
お昼にエアコン取り付けの業者さんが来る。今年の夏は、パソコン部屋の地獄の熱風空間から解放されるだろう。
夜は、おぬまさんは私にお札を1枚握らせると、オージービーフを買ってきてくれ。と突然言った。何故かというと、明後日にサッカーで日本対オーストラリアの試合があるからだそうだ。どうしてそれがオージービーフなのかは判らないが、あえて理由は聞かないことにした。そんな訳で、夕飯は三人で久しぶりにステーキを食べた。
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