熱過ぎるお湯で湯たんぽを作り、赤ん坊のように抱いて日記をつける。自分よりあったかい物は、自分より偉いような気がして大事に抱いている。家族以外誰とも話をしないので、自分が家族の利益にかなっているか、その事のみを優先して暮す。役に立てれば、よしとしよう。東京に戻ってから後悔に苛まれないように、今の状態を覚えておこう。確実に時は経過する。何処に行っても矛盾なく暮せるような、そんな生き方などありはしない。やってみて上手くいくか失敗するかは単なる結果であって、まず先にこちらの我を折る努力から始めなければ、いったい何が始められるというのだろう。
夜、仕事の直しに関して相棒からメールが届く。やはり問題ありとされた箇所が相当あったようだ。東京に戻ってから打ち合わせに参加せよとの文面。
夜、仕事の直しに関して相棒からメールが届く。やはり問題ありとされた箇所が相当あったようだ。東京に戻ってから打ち合わせに参加せよとの文面。
冷たい雨が午後に止んだ。運動を再開しようと思い、濡れた道を走ってみるが、身体が鉛みたいに重たくなっていた。たった数日動かさなかっただけで、あちこち衰えている。
今日はお義母さんの仕事がお休み。時折こたつに入って一緒にテレビのニュースなどを観る。話題を交わして、おかあさんは茨城の人だ、と当たり前のことを考える。生活の圏内がはっきりしている。農家の話題が出れば農家に同情し、この辺りの出身の力士がいれば、その力士を応援する。実家の北海道の暮しでもそうだが、生活圏に近い存在は総じて好ましいものとされて、その是非は土地の流儀に密着している。私も自分なりに工夫はしてみるのだが、地に足がついた生活というのが未だ不得手でいる。私とは環境だろうか。意思自体がそもそも環境の賜物だろうか。
今日はお義母さんの仕事がお休み。時折こたつに入って一緒にテレビのニュースなどを観る。話題を交わして、おかあさんは茨城の人だ、と当たり前のことを考える。生活の圏内がはっきりしている。農家の話題が出れば農家に同情し、この辺りの出身の力士がいれば、その力士を応援する。実家の北海道の暮しでもそうだが、生活圏に近い存在は総じて好ましいものとされて、その是非は土地の流儀に密着している。私も自分なりに工夫はしてみるのだが、地に足がついた生活というのが未だ不得手でいる。私とは環境だろうか。意思自体がそもそも環境の賜物だろうか。
東京ではきっと花見日和だったのだろう。ここ茨城ではどういう訳か、桜の樹がほとんど植えられていない。イメージ通り梅の都で、梅の時期には街全体から甘い香がする程なのだが、相手が桜だと驚くほどあっさりした付き合いとなる。どうしてなんだろう。
今日は茨城。家に籠って書き物をする。時折、休憩するため居間に行って、ゲームに没頭している娘と義母を眺める。私は人の背中ならまじまじと眺めることが出来る。これが目のついている側だと、途端に観察が難しくなるのが妙だ。目も背中も同じで、変わったところはないだろうに。
庭を眺めると、春になって初めての蝶を見かけた。蝶は弱々しい軌跡を辿って、左から右へとよたよた進む。明日は肌寒くなる予報が出ているというのに、あんな力で生きられるだろうか。
今日は茨城。家に籠って書き物をする。時折、休憩するため居間に行って、ゲームに没頭している娘と義母を眺める。私は人の背中ならまじまじと眺めることが出来る。これが目のついている側だと、途端に観察が難しくなるのが妙だ。目も背中も同じで、変わったところはないだろうに。
庭を眺めると、春になって初めての蝶を見かけた。蝶は弱々しい軌跡を辿って、左から右へとよたよた進む。明日は肌寒くなる予報が出ているというのに、あんな力で生きられるだろうか。